ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

モリタート

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わたしが「たとえ話」でよく持ち出す例に、「サインへの油断」というモノがあります。
知らない、ということに罪はないのか、というお話です。
たとえば海外のホップスとか聴いていて「この曲好き~」というヒト、すごく多いんですけど、英語圏の唄ならまだなんとなく、歌詞の意味も想像つくと油断してしまうのでしょう。
でも英語の「言い回し」ですら、日本人のわたしたちが慣例的になれていないスラングが交えられていて、実はとんでもない差別がうたわれているときも往々あったりします。
韻を踏むだけでなめらかに聴こえていても、実は「悪魔を讃える唄」だというものが、実に多く存在したりしているのが現実です。
それでも人は、「なにそれ、曲が好きなの、歌詞なんて自分にカンケイないし」といいます。
ほんとうに「カンケイない」ですまされるのでしょうか。
だってそれ、「さあ口ずさもう、そうすれば君も殺してもらえるよ~」という意味の歌詞だったら、それでもカンケイないですむのでしょうかね。
これ、罠です。
もし、未知の種族から何かの合図をもらって、その内容も知らずにただいい加減な身振り手振りで答えたら、相手の言語でそれが「お前と戦争をはじめてやるぞ」という意味だったとき、相手が、ああ、この種族は自分たちの言語を知らないから間違ったんだなあ、なんて思うコトはなく、それだけで十分に開戦の原因になった、という例が、歴史上にはいっぱいあります。
責任逃れのために、「知らなかったんだ」を繰り返して、自分に他意はなかったと叫んだところで、はじまった戦争の犠牲をぬぐい去ることは出来ません。
そこにはただ、結果があるのみ。
「知らない」ですまされない、ということです。
映画、「悪の教典」は、ズバリ、この問題を衝いてきました。
ジャズの定番、ここちよいメロディー。
人殺しを讃える唄なのに、知らない、という理由だけで普及して、あなたをスウィングさせてしまうメロディー。
ご多分に漏れません。
このごろわたしのアタマの中では「メッキーメッサー」が繰り返し流れています。
悪の教典」は作者が「続編をつくりたい」と言ってるくらいなので、もしかしたら続いてしまうのかもしれませんね。
しかし、ハスミンは、その実は、いろんなトコにフツーに存在しているようにおもうのですけどね..
サイコパスという存在で恐怖を描けるのは、ソレが特別なウチです。
いまの世界中のいろんなスキマには、もうフツーにそういう連中が溢れているようにも思います。
厄介なのは、そういう自分にあんまり本人たちが気付いてなかったりすることです。