ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

それからのジージャー 5

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そうした動きとは別に、もうひとつの展開の可能性である「ジージャーの日本での活躍」とういことについても類推を及ぼしてみましょう。
わたしはすぐに三池監督のことがアタマに浮かぶのですが、役者を存分に活かすということで昨今、ジャンルを問わずに成功しているのはやっぱり三池監督ということになるのではないでしょうか。
邦画に出来てハリウッドに出来ないことは、たとえば日常に潜む何気ない衝動を動機として描いてしまう緻密な演出や、人間の深い心情を多彩に描く演出だったりすると思うのです。
役所さんや、三池監督作品での山田さんの演技などには、実に秀逸にそうした面が描かれていて感心するのですね。
たとえば日本に来て誰も頼る先もなくコトバも通じず、ひとりぽっちで不安になる「タイ人のジージャー」の心情というのは、ハリウッドでは十分には描き難いことではないでしょうか。
邦画のチカラをもってすれば、儚いピアノのBGMに演出され、ロング(遠目に撮影する)でとらえられるフォーカスをかけられた髪の長いワンピースの寂しげなジージャーの深い表情は容易に想像できるのです。
これはタイ映画においても描きうる情景ではあるのですが、やはり説得力に邦画が一日の長アリなのですね。
そしてもっと言えば、少女と女優と勤勉さと情熱を持ち合わせる、ひとりの意欲的な女性を深く掘り下げて魅せる演出というものが、ハリウッドの映画で描かれうるともイメージしにくいのです。
きびしい言い方ですが、たとえばタイがそうした演出を施した作品を発進したとしても、たぶん日本人を含めて世界のどこの誰にも届かない、いいかえれば請うてそれを見たがる層は存在しないことだとも思うのです。
タイにおいてもいずれ、小津作品のような作品が生まれ(いいえ、いまも存在するのかもしれませんが)、世界に発信され、ひとつの文化として定着する日は訪れるとはおもいます。
しかし日本の映画はすでにそうした文化を世界に発信することを成しており、その既成のチカラを借りるのは大きな時間の短縮という効能にかなうわけですね。
ジージャーについては、東アジアでは年齢の問題が追いかけてくるのだという事実を忘れてはいけないでしょう。
アジアが彼女を時代を象徴する女優としてシンクロするには、あとせいぜい2年のあいだになんらかのブレイクがなければ難しいこととなるのです。
逆に、ハリウッドであればこれは問題ではないのですが..