進出開始
ちょっと前からなのですが、ジージャー、外国の招待や撮影の仕事とか、いろんなカタチで積極的に海外に出始めていることがNAOさん情報で伝えられています。
短絡的に、この動きがこう繋がっている、というような情報はまだないのですが、仮にその動きがただの招待で終わろうと、主役の撮影の仕事でなかろうと、実に、あたらしい人々、あたらしい環境に繋がっていくことだけでも十分に、ジージャーの存在そのものをアピールするプロモーションになっていることが容易にうかがえます。
こうした流れをよく考えると、わたしたちがまだその名を特定できないあらたな何かの動きに、たとえばドラマや映画やゲームコンテンツなど、そうしたものに既に、ジージャー、参加しているのではないのかなあと察するのですね。
インスタを見続けていると、ジージャーのその表情、ちょっとまえは「準備」を感じさせる真摯さがハッキリとみてとれたものです。
でもいまは、なにかの最中の充実を感じさせる、女優の顔のソレなんですよね。
ジージャーとジーザス 3
先に触れたように、ジージャーの側からジーザスへのキャスティング上の魅力をイメージするなら、なによりもまず「ギャップ萌え」依存が成り立つのだろうなあ、と、容易に想像がつくのです。
主人公の殺し屋、ジェイは、藤沢という亡くなった人間に成りすまし、強奪した1トンのヘロインを武器にある目的に挑もうとするのですが、この「成りすまし」が、彼の運命を大転換させることになります。
教員採用に合格していた藤沢は、ジェイの入れ替わりと同時に新任教師の職に就くこととなり、しかも強奪したヘロインの隠し場所が、彼が赴任するその高校の黒板のなか、と、ジェイはもはや学校へ赴くことから逃げられない状況に。
先生というシゴトに心得も無ければ適性も無いジェイからすれば、学校も生徒もフツーのヒトとして振る舞わなければならない生活というのも、いずれも緊急事態であり慣れるものではなく、失敗の連続です。
超一流の殺し屋が、新任のダメ教師。
まずはこのコケティッシュでファニーなモチーフを最大限の解釈で広げ、演出をころみます。
で、ここで思い出してほしいのです。
チョコレート・ファイターという映画の最大の魅力って、だれがどうみても、あの少女があのアクションを?!という意外性、そしてその大胆なアクションへの驚愕、感嘆という、いわゆるギャップに、その多くが集約されていたのではないか、という点です。
こう考えると、ジージャーの強み、このジーザスを演じるにあたっては、けっこうストライクど真ん中で発揮できそうな配役ではないでしょうか。
加えて、教師、という役柄。
少女のイメージが刷り込まれすぎたジージャーにとって、実にこのましい脱皮の役割をこなしてくれるものになるのではないかと想像しているのですが。
ジージャーとジーザス 2
作品全体俯瞰の視点から、ジーザスの魅力をトリミングし、そこに「ジージャー・ヤーニンの強み」を掛け合わせて、あえてステレオタイプに作品の「旨み」を定義してみるなら、おおよそ、以下のような感じになるでしょうか。
昼はキュートなダメ教師。夜は泣く子黙るハイスペックソルジャー。この先生、神にも悪魔にも愛されすぎ。
主人公の「職業、殺し屋」という、本来はキャッチーだった要素を、現代解釈上、アサシンやヒットマンとして限定して描いてしまうと、物語は途端に窮屈なものになってしまうことでしょう。
もちろん、この物語の根幹を支えるヒューマニズムや、運命の輪が紡ぐ因縁の展開が作品構成の主軸であることに変わりはありませんが、まずは徹底してクールに定義された主人公が、どんどんファニーに変貌していく様子と、それでもなお湧きあがってくる優秀なルジャーとしてのアクションとのギャップ、それこそが、ジーザスをジージャー・ヤーニンが演じるべき、とする必然の部分なのですね。
かわいいのにスゴい、という、チョコレート・ファイターのオマージュともいえるそのギャップのワクワク感の再現と、10年の歳月のなかで彼女が身に付けた、あらたなガンアクションの可能性の開花と、そして年齢に相応、かつ、女優としての資質が試されながら、世界のどこで公開されても前提を受け入れられやすい、教師という役柄。
だから、これ、ジージャーに!ということなのですね。
たとえば、CITY HUNTER
ジーザスの映画化、を考えるとき、たとえばこの映画のように解釈し、マンガ原作から実写化への組み立てをイメージするなら、それはおおきな間違いです。
フランスが、シティハンターのおもしろさ、その醍醐味が、おおきくはキャラやギャグ、その「絵」の魅力にあった点を重視し、このようにアプローチしたことは、まあ、正解なのでしょうけど(まだみてないから、おもしろいのかどうかはしりませんが)、これはシティハンター、冴羽獠だから成立することでしょう。
ジーザスでは、実際、こうはいかないでしょうし、こう組み立てたらもう、その時点で失敗だと断言できます。
ジーザスの絵の魅力やテンポは、良くも悪くも90年代のソレです。
続編となる砂塵航路では、良い意味で、つまりは、物語の骨太さを裏付ける役割を担ってこのエッセンスは受け継がれています。
この点を勘違いして、キャラの容姿に寄せたキャスティングをこころみたり、臭いセリフ回しや、退屈な解説的アクション手順の扱い方を描くことを追いはじめたら、それはもう、くどくて見る側を息苦しくさせるだけの、サイテーの構成センス、サイアクの組み立て方と言わざるをえません。
で、それを踏まえての敢えてのジージャーなのであり、それらのおもしろさを活かしながら昇華するための「いま」というタイミングのチョイスなのですが、まずはこの点を踏まえ、物語へのアプローチ、はじめてみましょうか。