ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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ジージャーの結婚

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様々なインタビューの機会で、ジージャーは自分の恋愛観について語っています。
そのなかで特徴的なのは、望む相手の像のなかに「私や私の家族を愛して大事にしてくれるひと」という言葉があります。
何気ない言葉ですが、この言葉はいまの日本人の同じ年頃の女の子からは、なかなか出てこない言葉なのではないかと思います。
結婚や恋愛ということについては、ひとそれぞれにいろんな意見があることでしょう。
ジージャーには幸せな結婚生活をして欲しいです。
結婚ということについてのみ、私はジージャーよりは先輩です(笑)。
結婚について考えてみましょう。

エドガー・ケイシーによれば、結婚生活は、そのひとが考え、想像する「天国」の最小の単位を再現するための機会であり、だから結婚しないひとは、それと同等のことを社会に貢献奉仕して再現する必然があるのだそうです。
この説の真偽がどうであれ、これはすでに優れたひとつの哲学だと察します。
私の造った天国は、皆から不評のようです(笑)。
何も否定しません。
これもまた、私と、私に繋がる「業」によってもたらされたモノだからです。
私の耳には、ものごころつく頃から毎晩、殺してやる、死んでしまえ、と、夜中から夜明けまで怒鳴り騒ぐ環境がありました。
これが社会人になってもまだ続いていたため、いい加減、わたしはその環境を許せなくなり叩き壊したのです。
それが、両親の別居と離婚でした。
そのころすでに、母は膵臓やら腎臓やら、臓器がどんどん痛めつけられ、顔も崩れてしまい、白内障緑内障を繰り返して失明に向かうところまで来ていました。
知ってますか?ヒトは、悪口や罵りでも体を悪くして、死んでしまうのに至ったりするのですよ。
一方父は、肝硬変になって行きます。
酒のせいですが、父の言い分によれば、世の中が悪い、妻が悪い、時代が悪い、お前が悪い、でした(笑)。
そうなのでしょう。
で、肝心なのは、そういう「他責の代弁者」のような父のコトバにすら力はあり、つまるところ、母を死に至らせることには成功しているのだということです。
時限爆弾です。
父は母より先に死にましたが、死んだことで母が快気などするはずもなかったのです。
常々言うことなのですが、赤ちゃんにもヒトが殺せます。
法も社会も、これを感覚として理解できていませんので、原因と成果に距離があり、自分たちの関数の範疇を超えると、もう放棄するしか手段を持ち合わせないワケです。
なので、父が裁かれることはありません。
そしてこういう理不尽な環境に置かれる、という地獄が、私の持って生まれた「運命」なのかもしれませんね。
さて、何年もの歳月が過ぎ、誰もいなくなりました。
いまはよくわかります。
恋愛は「自己の価値観」の確認の方法のひとつであり、それに対して結婚とは、運命の支払い方法のひとつなのだということを。
難しく考える必要はありません。
文字通りのことです。
価値観の持ち寄りだとか、親同士も親戚になることだからとか、いろんなことを建前に並べていた結婚前と、現実の結婚後では感想は違います。
良いも悪いもなく、ただただ現実的な「しあわせ」の手がかりだということ。
「幸せ」とは、もともとそういうものだということ。
先にも述べましたが漢字の「幸」という字は、手足を取られ、胴体に首だけが残っているということを表す象形文字ですが、意味も同じです。
手足をもがれても、胴に首が繋がってるのだから、ありがたくおもえ、というのが、しあわせというコトバのほんとうの意味なんですね。
ありがたくおもえ、ということの手さぐりの現実が、生きていくということなのだとおもいます。
ムカつきます(笑)。
それでも、現実は現実であり、幸せは幸せ。
気まぐれであろうとも、そういう父や母がいて、自分がいました。
そこは私の父のつくった「天国」でした。
すべてがすべて、イヤなことばかりではなかったし、そのなかで経験したことに説明や判定はカンケイないのです。
しかももうそこには帰れない。
絶対に帰ることができない。
そうなってしまうと何か、懐かしくさえあります。
幸せということをよく「学ぶ」こと。
なにより自分というものをよく知ること。
そして、「天国」を描いてみましょう。
結婚とは、誰かの「天国」の具現化なのですから。