ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

撮られる、ということ。

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お誕生日を機におもうのは、このところ、さらに洗練されてきたジージャーのビジュアルについてです。
撮られることは、撮ることと同じように、みずからの熱の発露、意思の提示の機会だということです。
少女のように、取られることで自分のなかのイノセンスがこぼれ、つたわる時期が過ぎて、どう、撮られていきたいのかが見えない模索の季節をむかえ、そして「美しさ」をつたえるときに至る。
ちょうどピンゲーオ監督のもとをはなれた時期のジージャーがその時期だったように思えます。
そして、いま。
ジージャーを伝えるいまのひとつひとつのビジュアルからは、ジージャーの、こう見られたい、こうあろう、という意思が垣間見えるのです。
なんというか、いよいよ、たましいがはいった、という感じを受けるのはわたしだけでは無いはず。
つまりは、このこと、世界中が感じ始めるのだろうな、ということなのでしょうね。