ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

取り返しに。

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ものごころついたころのムスメが、弟のことをとりまく、ひとびとの反応がおかしいことを訝しがりだした時期がありました。
そんなとき、わたしがムスメに聞かせたのが、手塚先生の「どろろ」の物語です。
ただ、それは、わたしのコトバで組みなおされた物語の「どろろ」として、でしたが。
わたしは語ります。
あるいのちが、いろんなものを奪われてこの世に生み出されて、ひとと違うすがた、違う大変さ、わかってもらえない世界を背負っても、それでも生きようと、生きていきたい、生きなければ、と決めて、なんのため、とか、なにがあるから、とかじゃなくて、ただもう、あったかい日のおひさまの日差しを「あったかいなあ」と感じるだけなのとおんなじみたいにして、いのちという炎でもって生きようとするとき、神さまがしてあげられるのは、それをわかってあげよう、いっしょにかんじてあげたい、というやさしいキモチをもつひととめぐり合わせてあげることだけみたいなんだよ、と。
そして、だからこそ、やさしいキモチでいのちを受け止めること、それをみつめる思いというのは、世界中のどんな宝物よりも大切で、大事なものなんだね、と。
百鬼丸は、自分の生きていくためのいろんな大変さとたたかっていくけれど、その痛みをいっしょに感じるどろろがいてくれることが、百鬼丸だけじゃなくふたりにとって実はとっても大事なことなんだ、そしてそれでもその季節は、人生のなかのほんのすこしの時間のことだし、だれかは悪くもいうだろうなあ、でも、それが全部じゃない。だから、だれかがまるで、決め付けるように、かわいそう、と言ったり、大変だ、というのも、それですべてじゃないんだよ、と。
1969年版のアニメ「どろろ」の主題歌には、ものごとを決め付けるもの、傍観をきめこむものたちに向けて、「おまえらはみんなバケモノだ」とにらみ、うがつどろろの感情をうたう節があり、こうして何十年もの歳月が過ぎたいまでも、わたしのこころに刺さる思いがあります。
ものごとへの解釈のそれぞれを、なんだ我田引水に、と、ハナで笑い揶揄し、字面の正否をのみ追うような、おろかなよの中の風潮が蔓延したいまでも、真摯なメッセージはあせることなく、ひとびとの「こころの痛み」に向けて届きつづけるものだと信じたいものです。
かえりみて、この国の、こころ深いメッセージを抱きつづけた努力の天才たちが生み出したコンテンツの「やさしさ」に、はやくジージャーがであってくれること、その出会いが深く美しく成就されていく季節の訪れをこそ祈ります。
それは、もう、そう遠くないことのようにも感じているのですけど。