ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

そして、ここから

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では、わたしたちはいまから、具体的にどう、ジージャーを応援していくべきなのでしょうか!?
タイにおいては、いま、ジージャーはテレビ番組に、そして映画に、と、活躍をひろげているという事実があり、それでよいのでは、という考え方もあるとおもいます。
でもわたしは、ジージャーは、そういう、伝わらない、見えない、わかりにくいところで満足し、曇っていることを良しとしてはイケナイのだと考えるのです。
タイで活躍することが曇っているとは失礼ではないか、とか、そんなハナシをしているのではないことは、さすがにもう、理解いただきたいのです。
タイ発信のコンテンツにも、傑作はたくさんあります。
しかし、いま、世界に通用するのはなにより、日本発信のコンテンツであるのは事実なのです。
そのうえで、ジージャーの活躍がその踏襲から遠ければ、やはりその立ち位置は「曇っている」と言わざるをえないのです。
いまの活躍だけで満足してはいけない。
なぜ、そうおもうのかは、もう数百回分ここに書いてきたこと。
つまりは、ジージャーにしかできないこと、ジージャーにしか期待していないことがあるから、彼女の成功を信じるからにほかなりません。
そしてそのうえで、いま、彼女はその道筋にはいないと感じて久しいのです。
でも彼女の瞳は活き活きとして、先にすすむことを貪欲に求めているようにしかみえません。
おそらくわたしたちは、彼女がそう遠くなく発信してくるであろう、わたしたちの想像の枠の外に来るようなインパクトを、彼女から受けとることになるようにもおもいます。
これはただの予感です。
ただしこれは、彼女のことを、彼女の活躍を、そればかりを執拗に感じて、願い、考えている人間による、ロジカルな考えの先にある直感が産み出してきた予感です。
おそらく、そのとおりになることでしょう。
でも、まだ足りない!
ジージャーにしかできないことのもうひとつの道の「正統性」は、まごうことなく、アクションをたずさえた映画女優としての、世界に通じる物語りの主人公としての活躍、これに尽きるのです。
わたしは、それは、ブルース・リーによる「燃えよドラゴン」のように展開するのではないかと想像するのですが、それはジージャーのカラーを備えたムーブメントになるのであって、過去のことをトレースするだけのものではありえないと察します。
そして、そうあって欲しいと願いもするのです。
そのうえで、ジージャーの活躍を、ふたたび、コンテンツというところから掘り下げ、考え、想像していってみたいと思うのです。