ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

ツナグ

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この映画は全体的にもすばらしかったのですが、個人的には特に大野いとさんの演技にひかれました。
彼女の女優としての成長は著しいなあ。
いや、もちろん演技そのものということでは、希林さんや桃李くんのソレはすばらしいし、間違いなく印象的でしたけど。
亡くなったものへの思いというのは、結局は、それを思慕する人間の印象の断片のかき集めなのかもしれないという問いかけにも共感できます。
こういう映画を撮ってみたいなあ、と思いました。
しかし同時に思ったことは、この映画、外国のヒトが観たら、どんなふうに感じるのかなあ、ということです。
習慣ややりとりの機微、反応の手順とモラルの置かれ方など、その国によってとられかたはさまざまのはずです。
残念なことに「チョコレート・ガール バッドアス」は、わかりにくいと評されています。
ほんとうにそうだろうか、と、ちょっと思うのです。
なんとなく、アクション映画なんだから、そうでないことが気に入らない、と、ムリにわからないという態度を決めて、感じるままを評していないので、なんのことはない、そんなふうに見えているということで括っているのではないかなあ、と。
実は「チョコレート・ファイター」ですら、初期にはそういう評価ばかりでした。
再評価されはじめたのは、まず、この映画を素直に「おもしろい」と感じたヒトたちが評価をはじめたことと、ジージャーの精妙な演技に少しずつ気づき始めたひとたち、具体的には障害者の関係者の目に触れ始めたことがきっかけだったのだと思います。
そのあとは便乗です、おもしろいのですから、当然、魅力は語られることとなって言ったわけです。
しかしこここからがまた、ねじれていくのですね。
つまり、ジージャーが何をしてもそれは「チョコレート・ファイター」との比較になってしまうという現象に陥っていくという状況に至ったということです。
大野いとさんの、女優としての成長にしても、それをよく見ないひとには「わからない」で済まされてしまうことなのかもしれません。
10年という時間を区切れば、それは見えてくるかもしれませんが、それほど鈍い感性って、わたしはちょっと引いてしまいます。
「ツナグ」は、よい作品でした。
この映画に関わる機会を得た大野いとさんは、これからその意義を実感するかもしれません。
映画というものはタイムカプセルみたいなものですから、評価の結論のすべてが、その公開のすぐのタイミングで得られるというわけではないからです。
そう考えるとジージャー、ある意味ではやはり「作品に恵まれていない」としかいいようがない側面がありますね。
作品の製作タイミング、作品の発表タイミングなど、なにかがズレてしまっています。
この状況を打開するためには、やっぱり、コンテンツの採択と他の国の製作の手を試すということがおおきいのではないかなあ、と、思いを強めるこのごろなのです.