ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

ああ わたくしはけっしてそうしませんでした

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みんながめいめい、自分の神様がほんとうの神さまだと言うだろう。
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも
涙がこぼれるだろう。
それから僕たちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。
そして勝負がつかないだろう。

けれど、もしおまへがほんとうの考えと嘘の考えとを分けてしまえば
その実験の方法さえきまれば
もう信仰も科学と同じようになる



正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識して
これに応じて行くことである



という、この、なんだかわたしの言いそうな怪しげなお話は、実は宮沢賢治さんの言葉です。
マンガ「特攻の拓」でも多く引用されている「春と修羅」は、宮沢賢治さんが妹の死を通じて描く宇宙ですね。
妹の死を綴る彼の痛みに溢れる言葉のなかから、魂の音階が紡がれる思いがします。
これをたとえば、その意味を言葉に依存して繙こうとするなら、おそらくは何も得られないか、おおきな誤解にたどりつくのが関の山でしょう。
ただ、ただたましいだけが、彼の言葉を受けとめるのですね。
そういう体験は、生きていくことのなかでとても大切なことだと思うののです。




「おいおい あの顔いろは少し青かったよ」

だまっていろ
おれのいもうとの死顔が
まっ青だろうが黒かろうが
きさまにどうこう言われるか
あいつはどこへ堕ちようと
もう無上道に属している

力にみちてそこを進むものは
どの空間にでも勇んでとびこんで行くのだ
じき、もう東の鋼もひかる
ほんとうに今日の...昨日のひるまなら
おれたちはあの重い赤いポンプを...

「もひとつきかせてあげよう
ね 実際ね あのときの眼は白かったよ
すぐ瞑りかねていたよ」

まだ言っているのか
もうじきよるはあけるのに
すべてあるがごとくにあり
かがやくごとくにかがやくもの
おまへの武器やあらゆるものは
おまへにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ

「みんなむかしからのきょうだいなのだがら
けっしてひとりをいのってはいけない」

ああ わたくしはけっしてそうしませんでした
あいつが亡くなってからあとの夜、昼
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
そう祈りはしなかったとおもいます



宮沢賢治「青森挽歌」