ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

10年という歳月

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かつてこのプログでも紹介させていただいている映画「唐山大地震 想い続けた32年」の日本公開は、いまだ延期のままです。
言うまでもなく311への配慮からなのですが、そうした良識に反して世の中は、ふたたび災害への緩い姿勢を許し始めています。
LEDへの切り替えで原子力発電所13基が不要になるというのが極端だとしても、大なり小なり原発の問題への詰めが甘すぎるというのは厳然たる事実です。
誰かへの利権を省いた世界の中で、原発の必然は成立しないことでしょう。
仮に成立するとしても、この地震大国日本において、あとどれほどの「想定外」を無視しながら原発の運営が成り立つのかは別問題です。
わたしたちはどうしてこういうことを許してしまうのでしょうね。
チェルノブイリハート」という映画があります。
福島で起きたことが情や絆でどうにかなるもので、がんばれば消え去ると信じているひとにはぜひご覧いただきたい作品です。
勘違いすべきでないのは、原発事故は「この次ぎ起きないように注意します」で済むことではなく、一度でも漏れればそれが答えだということです。
そしてそれはもう起きました。
いまから注意してもどうにもならないことですが、更になお、ここから先すらの注意をも怠ろうとしているのがいまのわが国の首相の言であり、それをゆるしているのがわたしたちなのです。
怠りとは、原発の稼働継続そのもののことです。
止めてすらいままで生み出し続けた放射性廃棄物を消すこともできないのに、なおまだ毒をつくり続けようとする、しかもまだ「大丈夫だ」「しかたない」と言い続ける。
どうしたらいいですか?
わたしはこのことを考えすぎて体を壊し、25年前、1カ月ほど入院したことがあります。
入院しても原発は止まりませんね。
こんなふうに、この国のことやひとびとのことを、満面に自分のこととして受け痛み続けるひとたちがいます。
そういうひとたちのうち、どうにも感受性が深く、自分の内面との向き合いが激しくなる類のひとの苦しみを、わたしはよく知っています。
そういうひとの切磋琢磨からなる、世界に向けての円熟のエンターティメントを受け取る機会は、とても貴重なものだと思っています。
映画にせよ、音楽にせよそれは同じです。
歳月を費やした結晶に期待します。
テロや311でほんとうに心が痛むひとの、そういう感性から生まれるエモーショナルな表現に、注意深く耳を傾けてみましょう。
他人の言葉ではない、みずからの内側から生まれる情熱の表現は、きっと多くのひとを感動させることでしょうから。