ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

急げ。

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1999年の映画「ギャラクシー・クエスト」。
わたしは大好きな映画なのですが、これはまあ、前提として「スタートレック」を知らないともったいないという位置付けの作品です。
パロディのようでいて、実はしっかり造り込まれている傑作なのですが、おんなじように感じていた層は厚かったようで、実は去年、テレビドラマ化が決まっていました。
15年もの時を経て、その世界観にごだわりたいひとたちが、オリジナル・キャストにこだわってのアプローチです。
作品をみてみると、敢えてそうすることの意味も、つまりは本家のスタートレックでのオリジナル・キャストの長い時間における起用に準じての、ということに基づいてのことだとも気付くのです。
それくらい、愛するコンテンツを大切にしていきたい、と、いう思いはヒトのこころをおおきく突き動かすものだということですし、換言するなら、物語りというものにこそ、ひとびとの抱く共有という名の「Will」(こうありたい、こうしたい、こうなのではという期待)が棲息しているのだということの証明だともおもうのです。
ただ、ここでわたしたちは、その浮かれた高揚感を諫められるかのような現実についても覚悟しなければならないということに気付かされるのです。
それは、時間というものは確実に過ぎて行くものだ、ということに伴う現実についてです。
アマゾンの製作が決定していたテレビドラマ「ギャラクシー・クエスト」は、ハリー・ポッターのスネイプ先生役で有名なアラン・リックマンが今年1月に急逝したことを受けて中止となりました。
製作中止が発表されたのはこの4月のことです。
思い入れがないひとたちにすれば、ひとりの役者の入替で済むことでは、という意見に至るものかとは思いますが、そうなのかもしれません。
でも、たとえばこの「ギャラクシー・クエスト」という作品の本質は、ニセモノとホンモノ掛け合いのなかに、忘れてはいけない真実を見出そう、という物語りです。
そういう作品において、安易に入替が肯定されるとするのなら、それは作品の本質自体をご都合主義でないがしろにすることと同じなのです。
入替が「安易」という見えかたをする時間が終わるまで、次の「ギャラクシー・クエスト」製作を待つとするのなら、残念ですが、それはオリジナル・キャストが生きているあいだには成されないことになる可能性のほうが高いでしょう。
エンタの神様のオープニングには、このギャラクシー・クエストのテーマが使われていましたが、おおくのひとはそれを知らないでしょう。
ファンのオマージャは、いろんなところでかもし出されるものだということです。
先日は「アメトーク」で、北九州市に、タイの映画、というお話がでてきたのですが、わたしたちにしてみるとそれは「チョコレート・ファイター」が思い浮かんだりするのですが、これにしても、ファン以外にはなんらのイメージも繋げないものでしょう。
本家、スタートレックは、キャストを一新しながらなお、あえてパラレルワールド展開となる世界観まで許容しながら、未来に向けてその襷(たすき)をわたそうとしています。
これほど骨太なコンテンツなら、それもありなのだろう、と思うのなら、それでは、単独パロディであった「ギャラクシー・クエスト」には、この論は当てはまらないのです。
ものごとを産み出そうとする想像の創造、その推進力は「思い」という熱です。
このプログでは、長い時間をかけて「ジージャーの活躍を応援する」ために必要なことや、どうあることが活躍のそのカタルシスを司ることとなるのかへの見解を練ってきました。
その結論は、まずは、コンテンツ。
そして活躍の場所。
なにより、スタッフを含めた環境の刷新にある、というものです。
そのうえで、いまのジージャーの活動が、ほんとうに彼女自身のためのものなのか、ということに、わたしは大きな疑問を抱いています。
でも、その疑問はただの私的見解だといわれればそれまでのものに過ぎません。
しかし、このことだけは、私見でも妄想でもないのです。
それは、ジージャーもまた歳をとり、ジージャーにだけ時間が止まってくれる、ということはないのだ、ということです。
もし、20年後、ジージャーがその女優生命を掛けた、その最高傑作に出演出来たとしても、わたしはそのころにはもう死んでいることでしょう。
急いでほしいものです。