ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

こころに届けようとすること

イメージ 1

どろろ
最初のアニメ化からずいぶんな歳月が流れましたが、こうしてまた復活です。
つまりは、優れたコンテンツというものは不滅だ、ということなのですが、そのことは同時に、1000年後に届く神話は、その実はたったいまつくられている、ということでもあります。
現代を生きるわたしたちは、全員が、神話の担い手です。
マンガが神話に?、何をバカな、という方は、いまいちど冷静に、古事記ギリシャ神話に目を通してみるといいでしょう。
そこに描かれているのはすべて、ただの比喩です。
そしてその比喩が伝えようとしているのは、数千、数万の時をこえて人間のこころに届けようとする、普遍のメッセージ、すなわち、生きることの意義こそを答えよ、というメッセージにほかなりません。
ある哲学者がいいます。
人生に問うな、人生に答えよ、と。
わたしはなんのために生まれ、何をすべきか、と、問うのではなく、艱難に、迫りくる苦難にこそ答えよ、というのです。
生きることは、たのしいこと。
その本質を、躓かずに手にいれるヒトには、それを享受する機会はあろうとも、深く慈愛に満ちた感動でもってそれを手に入れる機会はおとずれないのです。
生きることは、学ぶこと。
しかし、学ぶことは貢献のためにある機会。
そもそもが、そのことに気づくまでがたいへんな旅ではあるのですが。
で、そんなたいへんなことが、マンガのなかにこんなに潤沢にかくされ、誘うままに開放されている。
こんな用意のある国が、日本以外、どこにあるのか、わたしは知りません。
ともあれ、「どろろ」。
幼いころ、手塚先生のこのおはなしを読んで、わたしのこころを最初によぎった想い、それは、百鬼丸の腕のカタナ、カッコいいという正直な感想でした。
時が流れ、この物語を何度も読み直すなかで生まれてくるのは、人間とはなんだろう、生きる、とはなんだろう、世の中とはなんだろう、という想いでした。
いうまでもありません。感動は、こころをはぐくむのです。
なら、伝えられ続けなければ。
ねがわくば、そういう真理の近くにジージャーにもいてほしいと思うのです。