ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

3月。

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あたらしい春がきて、ジージャーもまたひとつ歳をとり、世界はなにかわからない、符号のような一点にむかって整理をはじめるそぞろあるきを続けながら、薄気味のわるい予定表の課題消化に勤しむばかりで、その歩みを止めることもないようです。
くだらないなあ、と思っています。
国と国の、愚にもつかないやりとりや約束への裏切りの繰り返しをみていると、またしても負の予定調和か、と、どうにもそんなふうに感じられてしまうし、それはヒトにしても同様なのか、とか、思い耽ったりしているところです。
突破、という言葉があります。
従順に現実にしたがうのではなく、予定調和的な目標を勢いで越えてしまう、という意味です。
去年、そして5年前、あるいは10年前をさかのぼり、いまと違う自分のなかに、いまへと貫かれた思いがうごめいて、その衝動がみずからの映画人生をスタートさせた事実を、ジージャーはもういちど、誰かから、問われるべき次期が来ているようにわたしにはおもえるのです。
積み上げ、ではなく、突破を。
端役、もう、彼女のためになりません。
そういう季節に、ジージャーもさしかかっているのだと思います。
おおよそのひとびとは、この試練を「すっぱいに違いない」「愚かな不安定だ」と揶揄し、避けて、平凡へと至るのをよしてして歳を重ね、そうして、老いて、若き日の夢に後悔を見るのです。
くだらない、と、思います。
人生の端役。
別に、それでいい、それだって大切なことでしょう、と、おおくのひとが擁護をはじめることを知ってます。
やっぱり、それは「くだらないなあ」と、わたしには思えるのですね。
Green VS Red の、ルパンといっしょです。
覚悟が、できるかどうか。
ヒトがヒトとその群れをわかち、突破するときに必要なのは、もっぱらそれだけなのでしょうね。
家畜の安寧、といううたの歌詞があります。
安寧とは、無事でやすらかなことをよしとする、という意味です。
で、それが蔓延してもたらすのは、凡百の凡夫がはびこるだけのゴミみたいな未来、縮こまった夢をおびえながら修正しつづけ、それでいい、やりとげたのだから、とうそぶくだけのニセの会心の人生の成立なのでしょう。
それが欲しいのでしょうか。
わたしにはどうにも、ジージャーがそういう人間にはみえないのですが。