ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

金八

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秀逸なコンテンツは、総じて長く語られる場合が多いのですが、実際にはその流れに緩急があり、ハナから人気に支えられて長続きするというものでもありません。
むしろ最初はなんだかよくわからないウチにスタートを切って、間をおくあいだに熟考が施され、揺るがないものになる、そういうパターンのほうが多いのではないでしょうか。
アニメでいうと、ヤマトしかり、ガンダムしかり、です。
逆に、鳴り物入りの作品が竜頭蛇尾に終わるというのは枚挙にいとまなし、という感じで、日本のドラマとかみてるとそういうの、ほんとに多いと思うところです。
マンガ、小説、ゲーム、アニメ、いろんな媒体がありますが、もっと昔の古典にまで目をやれば、たとえば西遊記とか、三国志演義のように、生活や文化のうえでの常識となっているものすらありますね。
ヒトのこころのなかにイメージの種がまかれると、物語は、そんなふうに成長していくものなのだということの証明のようです。
演劇としてコンテンツをとらえるとき、その物語の主役に「はまり役」として重なり、生涯の多くの時間をその役柄になぞらえられるケースというのがあります。
こういったことは、傍からは「役者冥利」と括られるところでしょうけど、場合によってはその役のイメージが強すぎて、病んでまったり、自殺してしまった俳優さんも多いのです。
それでも、ひとりの役者が演じてそのキャラクターが浸透し、そのひとの代名詞となるような役柄を得るというのは、その道のりまでの重大さを考え合わせるのなら、まずは俳優業を志すものにとって、目指すべき峰ではあるのでしょう。
こうした事例、たとえば映画であれば、007シリーズのジェームズ・ボンドや、スーパーマンクラーク・ケントなど、いろいろありますが、ここらへんは、役者が代替わりをしてしまったりで、特定の俳優の縛りに至るのかといえば(007にはロジャー・ムーアのイメージがあるかもしれませんが、この作品に触れる世代にもよってイメージもことなることでしょうから)、その限りでもないでしょう。
わが国のコンテンツに芽を向けると、男はつらいよシリーズの車寅次郎に、その見本を見出します。ごぞんじ、渥美清さん演じるところの寅さんです。
この「寅さん」同様、ひとりの俳優が長い年月をひとつの役を演じて繋がったテレビドラマ作品に、「3年B組金八先生」という長寿となったシリーズがあります。
こちらもごぞんじ、「金八先生」で、演じる武田鉄矢さんもまた、多くの場面で「先生」と呼ばれたりしていますね。
わたしは「金八先生」も武田鉄矢さんについても、手放しで肯定するものではありませんが、それでも、ひとつの命を吹き込まれたキャラクターを背負って生きていく俳優として、尊敬に値するとは思っています。
渥美さんの生き方がそうであったように、大ヒット作を背負ってしまうと、生活までおおきく縛られていきます。
それでも、こうしたコンテンツに携われたことを、こころから大切に思い、みずからの生き方をもってその感謝の意を顕し続けたということの裏には、自分の行動の影響が、どのようにひとびとのこころに映り、どんな種を巻くかを容易に想像出来ていたからなのではないかと察するのです。
渥美さんがお亡くなりになって久しいですが、武田鉄矢さんは、この渥美さんの生き方、それを知ったうえでいまも芸能界でご活躍されています。
ご本人の弁によれば、武田さんはかつて鬱病をわずらい、20年の歳月を費やされたとのこと。
こうなると、ひとりの人間が、コンテンツの下敷きにされてしまっているという感すらあるのですが、それでも「物語」は、そこに携わるひとびとを、物語のその先にまで運んでいくのです。
現代のテレビドラマという、長い歴史からみたら粒のような存在のものであれ、それを背負うことで生まれてくる「影響」というチカラを帯びることにかわりはありません。
長い時間を、ひとつの役柄で語られるような俳優になる、これは、こうした結果のあり方がどうであれ、役者を志すのならば、まずは目指すべき峰でしょう。
そのためにはまず、優れたコンテンツを見出し、その存在にたどり着くこと、どうにも、それしか方法はないのです。
ジージャーも、こうした、彼女の代名詞となるような、生涯を通じて語られるに恥じない役柄に出会えることを望んでほしいと願います。
まずは、願い、イメージしなければ、なにもはじまらないのですから。