ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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デスノート Light up the NEW world

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映画「L change the WorLd 」までを観るかぎりにおいて感じる、映画版の「デス・ノート」シリーズと原作との大きな違い。
それは映画版が、原作が何気なく掲げていた「それぞれの考え、立場に、良い、悪いはない」という見る者への「問い」を、ほとんど無視している、という点です。
これはまあ、話題を活かそうとした邦画の組み立て上、わかりやすさと急ぎを最優先する仕組み上、しょうがないことだったのだとは察します。
原作の「デス・ノート」は、ある側面、ピカレスク・ロマンに見える部分がおおきいのですが、その反面に強力なカウンター・キャラクターを置いて、読むもの、見るものの感情移入を上手にコントロールしていました。
実は、Lも、ライトも、同じ。
というか、Lが何の前提も置かずにすすめる「正義」に、説明がない。
正しいことは、ただ「正義」なのか。
ライトには、成したかった「正義」かある。
でもLには、実は、それが見当たらない。
ただ、正しくなければ、というだけ。
物語りを深く読もうとする読者は、ここに気付いてしまうのですね。
つまり、ライトは駆逐されるべき単純なワルモノでは無く、ほんとうは、あなたのこころのどこかにあるものの代弁者なのではないのか?、ほんとうにあなたのなかには「彼」は存在していないのか?という問いを投げかけることで、この物語りが成立していたのです。
この時期の少年誌において、これは異例の展開だったようにもおもいます。
「解」のない問いを提示する。
高度なことです。
ただ、ドラマや映画では、視聴者の層を考慮してか、この魅力的なエッセンスに潜むわかりにくさを嫌ってか、こうした側面はほとんど掘り下げられないで、そのやりとりの「おもしろさ」、物語りのミステリーとしての痛快さだけを強調する展開となって終わっています。
その証拠が、実に「L change the WorLd 」という作品の存在そのものだと思うのです。
正しいものが、成果を成そうとする物語り。
蛇足以外のなにものでもないお話。
その延長にあるのが、今回の新しいデス・ノートなのでしょうか。
まあ、見てみないと、なんとも言えないのですけどね。