ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

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アジアの人間が出演する映画の「絵」は、ハリウッドのそれとどう違うのか、考えてみたことがあるでしょうか。
ここらへんを解いて行くことは、実はアジア発信の映画の「強みを知る」ことにも繋がるのですが、日本の作品を除くと、アジアの現在の多くの風潮がまだまだこのことに気付いていないように感じます。
目鼻だちが細かく、スタイルも欧米人のような体躯にいたらず、わかりにくい感情の表現に始終する。
こういう「絵」が、アジアの映画が描き続ける普遍の場面であり、ようするに地味でこまかく、感情の同期に依存するものだということです。
換言するなら、欧米人を使うと、顔だちから表情を読み難く、何をいいたいのかをこころを澄まして追わないとわからないような演出や演技を実践することは出来ない、ということでもあります。
つまりは「繊細さ」「深い心情の変遷」を描くことは、ほとんどアジア映画、もっというならなによりも邦画の十八番芸だということであり、これはもう「強み」なのです。
フランスには、むかしの邦画を安い料金でみせるシネマテークという施設があります。
むかし、武田鉄矢さんのラジオ番組でこのことを知り、のちに追試的にこの文化についていろんな話しを聴くにいたり、ああ、なるほどなあ、と、おもしろく思ったものです。
つまり、フランス人、ことのほか古い邦画が好きだし、それらはずいぶん浸透しているのだということです。
ハリウッドにしか出来ない映画は、ハリウッドの表現以上をもとめてもさまにならないことでしょうし、逆にアジア映画がそれの真似をしてもそれは間違いなのではないか、ということなのです。
よく、あんまり全体をしっかりみたり、メッセージの真価を読み取れないたぐいの連中が、邦画は安っぽい、ハリウッドは素晴らしい、とステレオタイプに括りたがるものです。
そういうひとたちはつまり、精妙なことが理解できないだけでなく、作中に潜伏する読み取らねばならない真価としてのテーマ、という信号に、他人に提示指示されないと気付けない人種です。
この手のひとたちのことを糧としても、長い時間にしっかりと痩せずに生き残り、社会や個人に影響を及ぼすようなものを見出せもしないので、相手にしなくてよいのだとおもいます。
ただ、残念ながら、世の中にはそういう人間のほうが多いのですけどね。


麦子さんと
小さいおうち
カミハテ商店
ぶどうのなみだ

この4作のなかでは「麦子さんと」が秀逸です、あとは、どうにも筋が読めてしまうものばかり、特に「ぶどうのなみだ」は不愉快なほどあざとくつまらない作品で、大嫌いです。


暗殺教室
Gift
くじけないで
明烏
赤×ピンク
小野寺の弟
新宿スワン

みなさんはおそらく、「暗殺教室」なんかをわたしが評価しないと思ってるのでしょうけど、そんなことはなくて、この作品、ハリウッドでやるべきではない作品、原作のおもしろさとともに大いに評価するところです。
あとは「役者ありき」の作品ばかりで、どれもそこそこ楽しませてもらいましたが、こころには残りませんでした。
ちなみにそんななかでも、松井玲奈さんのこと。この子を主役にしてその魅力を描こうとしたいのなら、なんであんなにアゴが割れてることに目がいく様に仕向けるカメラワークばかりなのか、ちゃんと考えて撮ってるのかなあ、と、感じさせられるばかりでした。


くちびるに歌を
龍三と七人の子分
薔薇色のブーコ
神様はバリにいる
サンブンノイチ
寄生獣
思いのこし
泣いたらアカンで通天閣
イニシエーションラブ

これらのなかでは、「くちびるに歌を」と、「薔薇色のブーコ」「思いのこし」を評価します。
タイ映画が「くちびるに歌を」のような作品をつくれるのなら、ここはぜひジージャーを活かしていただきたいとおもうのです。
ジージャーには、そういう、飛んだり跳ねたりしないで、自分の立ち位置をしっかりと描ける主演作が絶対必要なのです。
「薔薇色のブーコ」は「ジャッカレン」と同じです、こういう視点の絞り込みでジャッカレンも再編集されれば、つまりはジージャー自身の評価もかわるのです。
「思いのこし」はエンターティメイントとしてのおもしろさをあざとく追った作品ではありますが、こういう「脚本」のおもしろさを淡々ともとめた作品も、ジージャーの評価のためには必要だとおもいました。
多くもうしません、つまりは、ジージャー、アクションへの執着なく女優として腰を据えていずれかの作品にとりくむ実績を、早急に積みはじめるべきだということです。