ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

ジージャー応援団!

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わたしのなかのジージャーのイメージは、なんやかやと言って「チョコレート・ファイター」からの積み上げの印象で出来てしまっています。
だからあたまのなかの片隅のどこかでは、「これはジージャーらしい」とか「これはジージャーらしくない」みたいな、根拠不明の基準が、知らず知らずのうちに出来上がっていたのだとおもうのです。
でもひとりの人間の印象を「こうあるべきもの」だとか、過去がこうであったからこうでなければならないとか、そんなふうに決めつけるのは、やはり間違いなのではないかなあ、ともおもうのです。
いいえ、すべてのもの、すべてのヒトが、そんなふうに「書き込みの自由」が許されうるのかと言えば、それはそれでウソです。
たとえば多くの普通のひとは、まずは自分のあるべき姿の実現にせいいっぱいで、そのイメージを追い求めることで一生を費やしてしまうのが現実です。
それはなにも卑小なことでも欠落のあるものでもなく、それどころか、自己実現それすらも持ち得ないひとたちがほとんどだという現代の現状を考えあわせてみれば、むしろ尊いことですらあります。
だからこそ、勘違い、思い込みがおこったのでしょうね。
ジージャー、美少女の印象のアクション女優、そのようであるべきだ、とか。
これ、思い込みです。
そして同時にわたしのこの思い込みと同じ過ちが、タイの映画界にもまだまだ根深くあるのではないかと察します。
この思い込みにメスを入れるきっかけとなった事件、それは、NAOさんがスタートした「ジージャー応援団」というサイトの存在です。

https://www.facebook.com/jijayaninfanjp

たとえばわたしは、ジージャーの写真を掲載するときは、ずいぶん先入観があってその未明の選択基準から選んだものだけを扱ってきたようにおもうのです。
ほかでもありません、みなに、ジージャーはこのようなヒトです、という方向を無意識にもたせたかったからなのでしょう。
逆に言えば、ジージャーが本来備えるおおくの自由な素養を認めていなかったのではないか、ということでもあるのです。
この点においてNAOさんのスタンスは、ずっと深くひろく、ジージャーそのものを追い、受け入れて、ジージャーの本質を見つめることに始終しているのです。
わたしも多く、そうしたNAOさんのスタイルに魅了されています。
たとえばアーティストの長渕剛さんは、わたしが子供のころには、男女の脆く甘い恋愛をうたう長髪の美男子というキャラクターでした。
いまやその真逆のキャラクターとして成功を納めている長渕さんですが、もし、彼をファンがひとつのイメージで縛りつけて、その差異をもとめることで成り立たせようとしていたのなら、そのファンの思い込みというのは、ほかでもなく、ただの足かせとなっていたことでしょう。
長渕さんご自身については、ご自身の鬱の傾向や依存(お酒はいまはやめているとのことですが)や驕慢のために、たびたび暴力事件、薬物事件を起こしていて、かならずしも万人の見本となりうる方ではないかもしれません。
ただ、それはそのひとの人生であり、その苦しさを誰もかわることは出来なかったことは違いないのです。
喉のポリープも、この声を大事にしたいからと、手術をしようとはしない。
そんなふうに、結果としてではあれ、自分のことをデザインしていこうと足掻き、進んでいくことに、おおくの「結果」が伴ったのだと察します。
ちなみに、長渕さんがおおきく変わられたのは、志穂美悦子さんとの出会いやおかあさんの死がおおきいのだろうなあ、と、容易に見出せるのですが、それらにしろ、何かしらの運命の采配であるようにも感じるのですね。
そんなふうに、ひとが進化する、ということを信じるのには、まずは固定観念の払拭への覚悟こそ必要なのではないかなあ、と、気づいてしまった次第です。
それこそが、ジージャーを信じることなのでしょうね。
そしてNAOさんがジージャーをあたたかな目でとりあげつづけることや、その変化を受け入れる柔軟さには、ジージャーへの多くの愛と希望の熱を感じるのです。
学ばねば。