ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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エンダーのゲーム

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「エンダーのゲーム」というSF小説を読んだのは、自分がちょうど主人公のエンダーと同じくらいの年齢のときのことでした。
降りられないゲームという名の戦闘、というコンセプトは、当時の自分には正直なところ退屈なテーマでしたが、何かしら印象に残り、そののちの多くのことに影響を与えていくのです。
こんなふうに、すぐれたコンテンツというのは、時限爆弾みたいに効果を発揮したり、長い時間をかけて人々に浸透していったりするものなのです。
「エンダーのゲーム」は、わたしが旅に出るときに、友人が「読め」と貸してくれた3冊のSF小説のうちの一冊でした。
のこりの2冊は「虎よ、虎よ!」と「スラン」という作品です。
3作品ともに傑作ですが、そのなかでも特にアルフレッド・ベスターの「虎よ、虎よ!」という作品には多大な影響を受けることになります。
アルフレッド・ベスターを評して「ガラクタをあつめて芸術をつくる」という表現がありますが、 いつのまにか自分の仕事の手法までコレに影響されていて、未知なるものと既知のものをどう意表をついた繋ぎ方で結びつけるか、というのが常套手段になっています。
他者の退屈な提案の10歩ほど先を行くこのやり方は、まずはクライアントや身内にすら気持ち悪く感じられるのが常で、いつもまるで魔法か予言のように思われてしまいます。
なんでそんなことがわかるのか、どうしてそんな突飛なことが成立するのか、と。
しかし、ベスターの小説のように、「コトバは味覚に、視覚は音に」という、人間の5感を統合して全体として事態を観る目というのを養っていけば、そういうことは何ら特別なことではなくなるのです。
そういうわたしの目から見ますと、ここにきて「エンダーのゲーム」という古典に近いような作品がいま映像化されるということにしても、わたしと同じように「種を蒔かれた」人間がその芽を息吹かせただけのことだと理解できてしまうのです。
これが、「物語」というものの素晴らしさであり恐ろしさでもあるのでしょう。
世界中にはいまだ掘り下げられることが十分ではない、おおくのすぐれたコンテンツが眠っていますが、それらのうちでも、映画の題材となりながら、なおかつアジアのアクション女優が渇望される作品というのは、実は少ないのかもしれません。
さらに言うならば、そうした「物語」のなかでも、それを受け取る人間の肺腑をえぐり、こころに強く刻み込む強いメッセージを讃える、真実を携える種、となると、もっと稀少なものとなるのではないかと思うのです。
それでもなお、このカテゴリーにおいてわが日本のコンテンツというのは、圧倒的に優れていると言えますし、期待してよいとも思うのです。
残すところは、ジージャー・ヤーニンという逸材に何を託してみることが、いちばん熱いキモチの種を蒔くこととなるか、ということだと思います。
わたしには、それが「シーサンメイ」であり「拳児」ではないかと、名指しにして思うほどに感じているところなのですが。