ジージャー・ヤーニン応援ブログ

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正しさ

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ふいに、「正しさ」って何ですか? とたずねられたことがあります。
で、ソレに一気呵成ににメールで答えてみたのですが...こんな感じです。


常識や正義というのはいつも「時代の関数」なのです。
ヒトって、「なんとなく」というワケのわからん「空気」に浸かって生きています。
いろんな事件がこの「空気」のせいで起きます。
その時代の大勢が「これが正しい」という空気を出してくると、そうでない「正義」はチカラを失ったりします。
でもよく考えてみましょう。
たとえばヒトを殺すのはよくないことでしょうか?
もちろん、そうですね。
じゃあ、なんで?
戦争がはじまれば、ヒトをひとりでも多く殺せることが褒められ、正義になります。
ところが戦争が終わると、ルールがあったのに、とか、なんてコトしてくれてんねん、というノリで、人殺しは犯罪者扱いになります。
これってなんでしょ?
ええ、空気なんですね。
山本七平さんの著作に「空気の研究」という本があります。ちょっとムズカシイかもしれないけど、いつか興味をもってみてくださいまし。
つまり、正しさもまた、空気に左右されているということ。
そんな脆弱なヒトの世の「ただしさ」では、信念をしっかり持ったヒトを縛ることはできません。
「ただしさ」は、ころころ変わりますしね(笑)。
次に「認識」という問題があります。
「ほんとう」って、なんなのだろう?ってコトですね。
ヒトの脳ミソって、誰しもが思い込んでるほどに「正確に」モノゴトを把握してるワケではけっしてないのです。
脳は、よく記憶を加工します。
とても自分に都合よく情報をまとめてしまう「思い込み」というクセを持つことを否めないのです。
ここらへん、キョーミがあればそこのとこを詳しくおしえてくれる「錯覚の科学」というおもしろい本が出てますので、読んでみるのもオトナとしてアリですね。
実はヒトは、結局「見たいものしかみていない」のです。
いわく、目の前にあっても、そのヒトがそれを注意する準備がないと、ヒトはそれを「見ていない」と平気で言うのですが、これは別にウソをついているワケではないのです。
つまり「脳」が、それを処理して抹殺してしまっているということなのです。
思い込みとヒトの心のもろさ。
これがつまり、「その場の空気」というヤツを助長し、時代の雰囲気というのをつくっていくわけですね。
でもおおくのひとが、この大前提に気づかない。
にもかかわらず、空気と錯覚はこの世の中で大手を振ってまかり通っているのですね。
だからそれにそぐわない「判断の軸」を持ち出しても、コンセンサスは得られにくく、実にならないことが多くなるのです。
軸とは、もちろん、ヒトの信念や秩序に沿ったルールのことです。
よく「なによ!ほんとうのことじゃないのよ!」と、正義をかざしながらヒトを罵倒するヒトをみかけます。
特に女性に多いです。
でも、その「ほんとう」って、そのヒトが都合よく順序を加工して述べてるだけの「ほんとう」であって、ただの事実にすぎないし、偉そうに言われるスジアイなんてほんとうはないものだったりしませんか?
先の「ひとごろし」に、このコトバをあてはめて考えてみましょう。
「なによ!あんたなんかひとごろしのくせに!」というかんじに。
そのヒトにヒトを殺したことのある事実があるのなら、それはいまの時代でなければ、褒められなければならないことです。
それならコレは褒め言葉じゃないですか(笑)。
でも、いま、たとえば職場でそんなことを指摘されたら、まわりの空気はイッキに凍りついて、みんなギョっとしますね。
これ、シャレになんないのは、実際におじいちゃんくらいの世代の人たちは「ひとごろし」ですもん。
コトバの並びの正しさは、ただの「正しい並び」と「事実」の羅列を告げるのに役に立つだけであって、絶対の基準になんてもともとなってないのです。
序列や誰かの権利を裏付ける「法律」というものにしたって、正直なところ、「誰にとって、どのように正しいのか(都合がよいのか)」は、かなり怪しいモノなのです。
わたし、いつもイエス様や唯一神や教会のコトを書きますよね。
断っておきますが、わたし、イエスさまご自身はほんとうにすばらしい方だと思っていますし、教えは大切なことだと思っているのですよ。
でもそれと教会は、ごっちゃにはできません。
コトバの表面のなぞりが正しいということと、並べられた事実の「意義」をどの軸に沿って判断するかは、全然べつの問題なのです。
つまり普遍的な正しさというモノは、「その時点で、誰に都合のよいただしさなのか?」という点のみがほんとうの焦点であって、ほかに意味も意義も、その実は希薄なのです。
法廷にたたされたとき、ヒトラーが言いました。
「判事諸君、君らがわたしに何度有罪をつきつけようとも、天の法廷はわたしの無罪を知っている!」と。
詭弁でしょ、と言うのはカンタンですが、そのとき、このコトバは、実は正義でした。
彼のコトバは、その時代の空気の軸を食っていたので、民衆は彼についていったのですね。
いまは、ヒトラーを褒めるひとなどだれもいません。
軸がかわれば、評価もかわるのです。
まあ、現実の日常の生活でいえば、傲慢にではなく、自分の「ただしさ」や自分の「存在の必然」を信じていれば、何を言われようとも「だからなんだ!?」と、なることだと思いますけどね。
認知障害のある人間と生活していると、「ただしさ」とは、結局は「誰かにとっての都合のよさ」だと気づいてしまうのです。
何もできないヒトに、できないことを責めるのはおかしいからです。