ジージャーの蒔く種
ひとつの新しい世界の創造のスタート。
2021年は、誰にとってもそういう1年になりそうな予感がします。
世界は変わらざるをえなくなりました。
でも、それはほんとうに悪いこと、嘆くべきことなのでしょうか?
どうしようもないことをたてにとって、肥大させてかたり、注意喚起をさも総意のようにメディアは括りました。
でも、マスコミの声は、あなたのこころの声なんかじゃありません。
ましてや、事実と真実は渾然としてたりなんかしないのです。
いま、世界には、なによりも、それぞれの自身の内側から湧き上がる、現実にも絶望にも呑まれないだけの、こころのパワーが必要になりました。
ところが、なによりもこれが一番、枯渇してしまってる。
皆、あまりにも長く、仕方ない、を、刷り込まれ続け過ぎてしまい、その麻痺の先に、自分こそ世界の創造主だという真実を放棄し、安い換金に騙され譲渡してしまったあとなので、こころが薄っぺらく、スカスカで空っぽになってしまってるのです。
それでも、まだなんとかなる。
なぜなら、いま、世界に想定外の隙間が生まれようとしているからです。
2021年こそ、差別をすすめ搾取を順調に企み、すすめていた、社会のどこかに潜む予定調和的な悪意の曲がり角の年でしょう。
正直にいえば、ウィルスの被害、よくよく想定していたことでしょう。
たとえば映画です。
たとえば、科学です。
少なくともわたしたちの世代は、これらの媒介から、いまの世界はいくらでも想像できていたはずです。
でも、まさか、というこころの鈍さが、このことへの対処をダメにさせてここまで来てしまいました。
いまおきていることは、ほんとうはよくよく想定できたことですし、事実上の戦争であり、遅かれ早かれ経験することに違いはなかったのではないでしょうか。
世界はもろく、ヒトは、とても弱く単純です。
でも、その弱いはずのヒトが、社会の成員となり、親になり、愛するべきものを意識すると、弱くも単純でもなくなるのだから、命というのは深く尊いものだとおもうのです。
そしてそのヒトたちが携わることで、世界は強固な未来を手に入れえるものに変わるのでしょう。
目を閉じ、感覚を閉ざせば、あなたと連なる現実の世界は消えてしまいます。
逆に言うなら、しっかりと見据え、意識をもってその世界に触れようとすれば、世界の未来はあなたのものに戻ります。
命を、輝かせる思いが募れば、ヒトは世界の創造を再開できるのです。
命は、こころは、闇に残る光。
その輝きを、皆の見本として示せるヒトこそリーダーです。
とりわけ、ジージャーの内側から醸し出されてる明るいパワーからは、未知の世界の訪れを期待させる能動性を感じてやみません。
変わることを、恐れて、ネガに言うひとは多いです。
まるで恐怖で支配する宗教のように、闇を歓迎したほうがラクだ、という風潮が世界を覆おうとしてます。
でも、その闇を払う光は、最初はいつも、ほんの小さなチカラに満ちたたったひとつぶのタネの輝きからじはじまるということも、覚えておくべきでしょうね。