ジージャー・ヤーニン応援ブログ

いいえ、女優ジージャー・ヤーニンを応援するブログですとも。

映画というものへの期待

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ここ数年、洋画のヒット作の多くは、マンガ原作だったりリメイクだったりして、映画のオリジナルな、つまりは「その作品」自体から、解説抜きで感じたまま観る側が受け止めるということを許さない作品がほとんどです。

どの映画も、こう観ろ、こう感じろ、という強制が隠されていて、気がつくと似たものだらけ。

これは否めない流れです。

そもそも我が国のテレビ番組では、それがバラエティーであれドラマであれ、テロップやMCやガイドや感想の披歴が普通のこととなっていて、見ること、感じることからほんとうの意味で感動する、ということを歪ませて久しいです。

気がつくと、常識という時代の関数の餌食。

感動にもマニュアルやテキストがあり、もうだれもそれにあらがわないし、騒げば空気を悪くするということで考えてみることすら放棄する、そんな「いま」の世の中の現実を前提とするなら、この現状こそ、国民総白痴化、思考隷属の完成の姿ということなのでしょうね。

こうなると、もうメディアって、依存を撒き散らして根付かせるただの毒でしょう。

これの中毒になると、どうにも「自分」というものが無くなったことに気付くことすらできなくなるもので悲惨です。

そんなバカな、と、ヒトは、ちまじましたトコロ、誰かの掌のうえでなら、どうとでも「自分の意見」と錯覚したアジテーションもやらかしたりするのでしょうけど、そうしたものは結局、予定調和であり、自意識無しのロバ売りの親子の勘違いというものでしょう。

でも、もう否めもしません。

だったらなおのこと、優れたコンテンツにこそ蔓延してほしいと、せめてものあらがい、ヒトがバカになって行くことを良しとする連中に一矢報いるためにも、熱くて速くて美しいものを優しさで包むような、そんな作品に魅了され、滅んでいきたいと願うものです。

そういう映画、どれだけ、世の中には生まれえたのでしょうね。