瞬きのソーニャ 1
むかし、フレデリック・フォーサイスとかの小説を読んで、設定の深さやディテールの細かさに拘ることは、十分読む者を魅了するものだなあと実感して、自分でもそういう物語を書いてみたいと、「もの調べ」に凝ったことがあります。
その頃に調べて身についた知識は、自分の人生を自分自身に向けて多様に解釈させ、楽しませてくれる糧となりました。
なにより、正義や正しさすらひとつのカタチに限らないのだと学んだことは、そののちの自分に向けて、したたかに心を支える役割としては十分に役立っていたように思えます。
それでも、こういうのは特殊なこと。
当時、皆が皆、もっといえばティーンエイジャーが普通にフォーサイスのような世界を受け入れられたのか、といえばそんなわけもありません。
あくまで、そういうのは特殊なケースであって、同級生にモサドだのバチカンだのを語って「はあ?」とあきれられたり、KGBと書いてカーゲーベーと読んだらそっちを笑われるような、そんな反応があたりまえというのが普通なありかたでした。
しかし、それもいまや、通用してしまう世の中です。
いまさらに「なんやそれ」と返すのはむしろ、お笑芸人が提示するレベルが低いのよわたし、笑ってえ的な世界感の中のこと。
フリーメーソンが、一般女子の口から出てくる時代ですからね。
物語というものがあからさまにわが身から遠く、関心の喚起も難しいような世界のことだからと、隔絶の次元感による距離が生まれることを懸念させた時代も、実はもう終わってしまったのでしょうか、最近は、異世界やら異次元なんて想像まで、フツーに語られてしまう世の中になりました。
で、「瞬きのソーニャ」なのです。
この漫画、とにかく、スゴい。そしてその画のタッチから、その実は激しく特別なことを物語っているということすら晦ましてしまう巧さ、まったく脱帽です。