印象の魔法 2
で、いまはまるで、少年のよう。
ジージャーを捕まえて!!
ジージャーの活動情報、坐していて入るはずも無いのは当たり前だとしても、このごろは、探しても結局、推測の域を出ないようなお話ばかり。
でもなんとなく、これって、深く広がる動きが隠されながら推進しているということの信号のようで、ちょっと期待してしまうのです。
オーダー
今年の春くらいにあるインタビューで、ジージャー、数本の外国映画のオーディションを受けていると答えていたのですが、そのころから9月までのインスタやほかの情報を追うかぎりでは、たしかにいろんなところに行っている様子だったので、なにかしら、海外作品に携わっているのだろうなあ、と察しますが、作品タイトルやら役柄やらはさすがにわからない状況です。
ここから来年にかけておそらく、わたしたちはジージャーに関してのおおきなトピックスを聞く機会を得られそうなのですが、それが作品出演のことなのか、カズさん絡みのことなのか、どうにもまだ不明で、なんとなくは後者のような予感もしてはいます。
ジージャー自身の身になって考えるなら、やっぱり、今年という1年までに触れ、思い、繋がったものはすべて、自身の人生の節目のこと、これからの人生の種子と認識するでしょうし、本人のなかではもう、それぞれは整理のついていることのようにも感じるのです。
40代にむけ、女優の道を整えようとするのなら、演技における個性やつよみを客観的に定義し、わかりやすく、かつ圧倒的に魅力を盛り込み、すみやかに世界に手渡さなければなりませんし、そこにアクションの素養を残すのなら、ここからはタイマー付ということになるでしょう。
わたしはいつもトリミングしてジージャー自身を紹介していますが、実際のジージャーがあげるインスタの多くには、カズ・タン・パトリックさんの登場がみられます。
お互いがお互いを高めあうだけでなく、その関係から生じる一挙手一投足が、ジージャーの海外進出や作品への登用の機会に繋がってくれれば、と願うばかりなのですが、過去の現実を鑑みるかぎりは、それこそが最も難儀なことでした。
彼女を応援する身にしてみれば、どんな成果やシアワセをジージャーが選ぼうとも、それが彼女の望むことの成就であって欲しい、というキモチにかわりはありません。
ただ、願わくば、まさに「いま」こそ、ジージャーの頂点としてのアクションと演技、堪能させてもらえないものかなあ、とは、ココロの中で夢見てはいるのですけど...
映画というものへの期待
ここ数年、洋画のヒット作の多くは、マンガ原作だったりリメイクだったりして、映画のオリジナルな、つまりは「その作品」自体から、解説抜きで感じたまま観る側が受け止めるということを許さない作品がほとんどです。
どの映画も、こう観ろ、こう感じろ、という強制が隠されていて、気がつくと似たものだらけ。
これは否めない流れです。
そもそも我が国のテレビ番組では、それがバラエティーであれドラマであれ、テロップやMCやガイドや感想の披歴が普通のこととなっていて、見ること、感じることからほんとうの意味で感動する、ということを歪ませて久しいです。
気がつくと、常識という時代の関数の餌食。
感動にもマニュアルやテキストがあり、もうだれもそれにあらがわないし、騒げば空気を悪くするということで考えてみることすら放棄する、そんな「いま」の世の中の現実を前提とするなら、この現状こそ、国民総白痴化、思考隷属の完成の姿ということなのでしょうね。
こうなると、もうメディアって、依存を撒き散らして根付かせるただの毒でしょう。
これの中毒になると、どうにも「自分」というものが無くなったことに気付くことすらできなくなるもので悲惨です。
そんなバカな、と、ヒトは、ちまじましたトコロ、誰かの掌のうえでなら、どうとでも「自分の意見」と錯覚したアジテーションもやらかしたりするのでしょうけど、そうしたものは結局、予定調和であり、自意識無しのロバ売りの親子の勘違いというものでしょう。
でも、もう否めもしません。
だったらなおのこと、優れたコンテンツにこそ蔓延してほしいと、せめてものあらがい、ヒトがバカになって行くことを良しとする連中に一矢報いるためにも、熱くて速くて美しいものを優しさで包むような、そんな作品に魅了され、滅んでいきたいと願うものです。
そういう映画、どれだけ、世の中には生まれえたのでしょうね。